「スプートニクの恋人」(2)


10月27日(水) くもり


久々の2日連続更新です(^^)。最近、めっきり秋になってきました。家に着いて車を降りたら、木枯らしみたいのがふいてました。でも風は生暖かいの。まだ、心の底から寂しくなる季節ではないけれど、そろそろ覚悟を決めてなくては。突然、冬になるとつらいものね。

私の愛読雑誌の1冊に「ダヴィンチ」という本について書いてある雑誌があります。創刊からずっと読んでいたのだけど、ここ1、2年おもしろくなくなっていたのであまり買わなくなっていました。でもこの前、本屋さんで久しぶりに見つけたら、またおもしろくなってたみたいでした。

その中に「百人書評」というのがあるのですが、このコーナーでは、読者が一言で好き勝手なことをはがきで投稿し、編集部が100人を選抜して載せています。10月号の「いけにえ本」は「スプートニクの恋人」。この間の感想では、読んでない人のためにつっこんだことは書かなかったけど、今日は内容について書いてみようと思っています。

私が「ノルウェーの森」が嫌いなのは、自殺者があまりに多いこと。一人の人間の周りで起こる出来事にしては多すぎる、そんなに簡単にできるものではないのに...これが最初の感想です。

そしてアンチ村上春樹を語るために次々と読んでいくうちに、なんていうか、彼のあたたかさみたいのが伝わってきて、それで好きになりました。彼の書いたものはほとんど読みました。それから、彼について書かれているものや語録なんかも読みました。そういったことも含めての感想です。

まだ読んでない人で、読んでみようと思っている人は、ここから下は読まないでくださいね。























以前、村上春樹は、なにかの雑誌で「自分の作家としてのスタイルは、『ノルウェーの森』路線でいくか、『羊をめぐる冒険』路線で行くかを迷っている、と書いていました。そして、『ねじまき鳥クロニクル』の完結編を出したとき、自分は『羊をめぐる冒険』路線でいくことに決めた、というようなこと書いていたことがあります。

詳しくは説明していませんでしたが、私は、感情や人物描写重視ではなく、ストーリー展開に重点をおく、そして完結させる、という意味にとりました。それで『スプートニクの恋人』も「起こった出来事(事件)」に重点をおいて読み進みました。

すみれとミュウと「ぼく」との関係は、なんだか不思議な世界だし、ミュウの観覧車の出来事など理屈では説明のできないこともあるけど、でも「不思議な世界」で片付けられないような印象を受けました。

ダヴィンチのいけにえ本が「スプートニクの恋人」だとわかったとき、読者の議論の的は、一番最後に本当に「すみれ」が「ぼく」に電話をしたのか、ということになるのじゃないかと思いました。でも、誰もそのことに触れていなかったので、私は今日、ここに書いてみたいと思ったのです。

それまでの描写では、「すみれ」が「ぼく」に電話をかけるときはいつも、日時がきちんと書かれていました。でも、最後のところだけ突然かかってきて、他とは違うメッセージがあるような気がしたのです。

だから、たぶん、「すみれ」は「ぼく」に電話なんてしていない→戻ってきていない、と考えました。

「すみれ」は戻ってこない、それはなぜ?...私は、あの出来事は最初からしくまれていたのではないかと思いました。つまり、ミュウは「すみれ」を隠したのです。それを承知でギリシャの島に「ぼく」を呼んだのです。

ギリシャに捜索隊がでるとき、島の人が「こんな島で女の子がうろうろしていたら、嫌でも気がつく」って言ったでしょう?1週間も、他の島へ渡った形跡もなく、うろうろすることなんてできるでしょうか?すみれは「消えた」のではなく、「隠れた」のではないでしょうか?ミュウはそのことを承知で。

そして、ほとぼりがさめたころ、すみれは遭難したことになり、誰もが忘れ去ったあとに、ミュウと二人だけで生きていく、二人だけの愛を貫く、そういう風に私は解釈しました。

それならどうして、ミュウは「ぼく」をわざわざあの島に呼んだのでしょう?「ぼく」が行かなくても、捜索隊を出して、すみれの両親が認めれば、周りは納得するはずです。なぜ「ぼく」を呼んだのか?

「ぼく」でなくちゃならなかったんです。なぜなら、「すみれ」にとって、外界=世界のすべては「ぼく」だったからです。彼女がミュウとの二人だけの世界に入るためには、「ぼく」が「すみれ」の存在を確認=あきらめなければ、「すみれ」がミュウと二人きりの世界で生きることは不可能だったのではないでしょうか。

フロッピーディスクを発見するのも、謎を解くのも、「ぼく」でなくてはいけなかった。だから、「ぼく」があの場に呼ばれた。フロッピーの発見のさせ方は、「すみれ」の「ぼく」への最後の思いやりではないかと思いました。いつも「すみれ」を思ってくれた「ぼく」への。彼が何を考えるか、どうやって見つけ出すか、彼だけのことを考えた「すみれ」の最後のやさしさだったんじゃないかな、と思いました。

あの状態でなら、ミュウが、ほとぼりが覚めたあとに「消える」ことも難しいことではないと思います。ミュウだって現実社会にいたら、不思議な存在だから。それに、「ぼく」と会ったときのミュウはあまりに平凡で、なにかを隠している印象さえあったのですけど。そう思いませんか?

すみれは自殺したという可能性はあるけれど、あの話の雰囲気の中で、そう言ってしまうのはあまりにも簡単なような気がしました。その裏付けとしては、「スプートニクの恋人」というタイトル。スプートニクは、ロシアで打ち上げられた宇宙船で、「共に回るもの」という意味があるそうです。

ミュウと「すみれ」は、いつまでもいつまでも共に回りつづける決心をした、これが私の解釈です。

違うかな?(^^)








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